九州大学
令和5年3月末をもちまして、無事、大学教員としての職務を終えることになります。これもひとえに、皆様方のご支援とご協力による賜物だと深く感謝いたします。
出雲大社で大凶をひいたおとこ
出雲大社に行った際、私の引いたくじが「大凶」であったため、 「おまえは生涯、苦労するよ」といわれた記憶があり、30歳以降はくじを引かないことにしていました。 「出雲大社で大凶を引いた男」という本が書けそうですね)。
幼少期
私は、工場内の一室で生まれたため、工員さんが毎日、真っ黒な手を茶色の粉状の洗剤で洗っていたことを覚えています。 経済上の問題で、幼稚園に行くことができず、工場内で遊んでおり、活字を元の場所に戻すことを手伝っていました。
小学校時代
生まれが唐津ゆえに、競艇が盛んで、たまたま出場したボート大会で優勝したこともあり、小柄でもあるため、競艇選手になれと何度も、言われたことを覚えています。
夏になると、毎日海に行き、素潜りで赤貝をつかみ、桟橋にいけば、カニを取り、コメ袋一杯になるまで、晩御飯のおかずを取っていました。 西の浜の海岸には、それだけ自然の恵みがあったのですね
中学校時代
バレーボールの練習の日々。運動すると、汗も出るし、晩飯もうまい。睡眠良好。勉強などはほとんどしていません。 勉強しないといけないと感じたのは、3年生になった頃ぐらいからですかね 父は、銀行員になると、金持ちになれると言って、唐津商業高校への進学を希望していましたが、友人のS君が、 これからは大学へ行くのが普通になると言い、普通科の受験を勧めました。私は唐津東高校に合格して、喜んで進学しました。
高校時代
勉強が出来る人が立派な人という競争社会を意識するようになりました。勉強を楽しむというよりも、より上位になるために、 勉強させられた(?)という感じですね。有名な大学に進学させることが、高校の使命であるかのように、成績が最も価値の高い能力、 というような評価になっていったと思います。
高校時代は私にとっては、楽しいというよりも、受験戦争に振り回された時代といっても過言ではありません。
浪人時代
西新の予備校に受かり、姪浜の寮に住むことになりました。
友人に誘われて、以来、毎日のように、朝10時にパチンコ屋に直行。閉店10時まで、パチンコに勝つにはどのようなスキルが必要なのか、 徹底的に学びました。まずは、床に落ちている玉を拾うことから始めて、1個を心込めて手打ちしていました。 勉強などはどうでもよいと思い、将来のことも考えずに、遊びふけっていました。
医師になると、金持ちになると気づき、医学部に行けば、将来裕福になれると突然思いついたように、医学部へ受験しようと決心しました。 それほど、大きな夢ではなく、衝動的に思いついたように、貧乏な生活から解放されたいという子どもながらの切実な願いでしたね。しかし、 もう遅かったですね。半年以上、遊びにふけっていましたので。しかし、今思えば、こういう挫折体験は私にとって、大切な時間だったかもしれません。
一県一医大制をいう改革により、佐賀県に佐賀医科大学が設立されることになりました。 ここしか、自分が受験する大学はないと確信しました。早く資格を取って、 社会に貢献したいという気持ちでいっぱいでした。 翌年には、一期生として合格し、ほっとし、両親は大変喜んでくれました。親孝行をしたような気持ちになりました。
大学時代
大学3年生の後半くらいからでした。両親はそれぞれ、病気に苦しみ入退院を繰り返し、金銭面に困った状況に陥りました。 生活費、学費すべて支援するから、将来、病院の後継者(麻酔科)となっていただきたいという話が飛んできました。 私は養子になり、大学6年の夏休みまで仕送りが途絶えることはありませんでした。 同じ屋根の下に住むことができる人に必要な最低条件は「信頼」「尊敬」「愛情」なのだと思いました。
そこでは、自分の劣等感(コンプレックス)は増すばかりで、完全に自分が否定されたような気持ちになりました。 この悩みから解放されたいために、麻酔科に入局するはずが、精神科に入局することに決めました。6年生の後半は、 医師国家試験の準備もあり、地獄のような生活だったような気がします。

お金が途絶え、縁が切れ、ホームレスとなった私は、鍋島駅と佐賀医大の宿直室を交互に寝泊まりしました。 鍋島駅で寝泊まりしているときに時、お婆さんが私のところに来て、泊まるところがなかったら、うちの隣の部屋が空いているから、 泊まりなさいと親切にも私を拾ってくれました。私はお婆さんの優しさに涙して、そこに泊まることにしました
翌年2月に国家試験を無事受けることができました。 合格発表に名前が載っていることを確認し、 ほっとしたのと同時に、これで私は自分で飯を食っていけるという感動に浸りました。
研修医から助手時代
まずは精神保健指定医を取ることを当面の目標として、どんな患者さんでも積極的に担当しました。 1年目は病棟。 2年目は救急部、手術部、総合外来をローテ―トしました。 3年目は措置入院や思春期などの症例を経験するために、嬉野温泉病院に1年間勤務しました。
放射線科の事務の女性と唐津にドライブに行ったことを契機に、仲良くなり、結婚を意識するようになりました。私は、 これまで女性にもてたことがなく、女性が苦手でしが 双方、気持ちが合って、嬉野温泉病院に勤務しているときに、結婚しました。 子どもも出来ました。
1年勤務した後、大学病院に戻り、助手になりました。外来も担当するようになり、ものすごく多忙な日々を送りました。 1年間の助手を経験して、次に鮫島病院に1年間勤務。ここでは、多くの入院患者さんを担当しました。老人病院の大変さも経験しました。 あっという間に5年が過ぎました。
平成2年10月(33歳)に精神保健指定医の資格を取得しました。鮫島病院から戻ってからは、大学の助手として、 大学病院の入院外来、コンサルテーション・リエゾン活動に一生懸命に従事しました。

将来を考えて学位がないと大学で勤務するのが難しくなると指摘され、総合外来における精神障害の有病率に関する研究はどうかと指導を受け、 平成3-4年の1年間、総合外来の新患にどれくらい精神障害の方が受診されているかを調査することになり、 私は構造化面接という方法を用いて、 1年間調査した結果をGeneral Hospital Psychiatry に受理されました。 タイトルは、Lifetime prevalence of specific psychiatric disorders in a general medicine clinic. この論文で、平成5年9月(35歳)に医学博士号を取得しました。
講師時代
日常業務はさらに忙しくなり、チーフレジデント(病棟医長+外来医長)を担当。外部では、佐賀少年刑務所に月2回勤務。 研修医が入局するように努力することも大変でした。
論文を書かないと辞めさせられるのではという不安。2人の子供の成長を見守ることもせず、絶えず、携帯パソコンで文字を打ち続け、 家族は破綻状態。今、振り返ると、精神科医として、人間的にも最低であった時代だと思います。
佐賀大学(本庄キャンパス)時代
佐賀医科大学と佐賀大学が統合し、 私は本庄キャンパスの准教授として異動の誘いを受けました。 話はとんとん拍子に進んで、42歳時に佐賀大学保健管理センター准教授に異動が決まりました。 所長と一緒に、学生の健診業務に携わりました。聴診器で久しぶりに心音を聴いたり、甲状腺を触れたり、既往歴を尋ねたり、 異動してすぐに、今までとは違った業務となり、一方では、カウンセリングの仕事に従事したりして、 毎日が今まで考えられないような爽やかな充実感のある仕事に転向しました。自分にぴったりと合った本当にありがたい仕事でした。
所長退官後、佐賀大学保健管理センター所長(教授)に昇格できることとなったのです。

日本学術振興会の交換教授制度に合格し、平成19年(2007年)7月から9月(3か月間)まで、ニュージーランドのオタゴ大学に単身赴任することにしました。 Student Health Services がどのような活動を行っているかを十分観察することにしました。 帰国してからは、ティタイムを設定したり、保健管理センターの受付を大きく改造したり、トイレの改修、使用されていない実験室を壊して、 カウンセリングができるように改築。かつてレントゲン室であった受付の正面の部屋をリラクゼーションルームとして、 改築して、学生が気軽に漫画本が読めるようにしたり・・・など。ニュージーランドの文化から得られたことを佐賀大学に応用しました。

平成22年10月に自分の身体に大きな異変を感じました。 ここからは、がんとの闘病生活をしながら、保健管理センターの業務に支障が生じないように頑張ったつもりです。53歳でした。
4年後にチューター制度の評価がなされましたが、本学のチューター制度が有効に機能していないことが分かり、 ポートフォリオ制度へと変化していきました。さらに、身体およびメンタルの悩みをもつ学生を支えるために、 キャンパス・ソーシャルワーカー制度を施行しました。 発達障害などに悩む学生を支えるために、集中支援部門が設置されました。
がん体験記
佐賀大学医学部附属病院にて、左腎臓がんと診断され、左腎臓全摘出術を受けました。 がんの再発の不安を吹き飛ばすためには、好きなことに没頭するしかないと思ったのでしょうか。いのちのある限り、 好きなことを好きなように、人生に後悔が残らないようにすることが最大の予防策だと心に決めました
5年目の検査で(58歳)、右胸部に5ミリ程度の陰影が出現。この時点で、転移性病変(遠隔転移、ステージⅣ)と診断され、 以降、再び、術後と同じように3か月に1回のCT検査を受けなければならないようになりました。正直、泣きました。 死ぬかもしれないと思い込みました。 どうにかして、がんの再発の不安を軽減するために、何かに没頭したかったからです。 関谷静司先生(佐賀ギター音楽院院長)のクラシックギター中級コースで 指導を受けました。 その後、定期的ながんの健診を受け、2019年3月(60歳)、結果が報告されました。3か月前のCT検査と比較して、 右肺中葉結節、右肺門部腫瘤は縮小し、経過から炎症性変化の可能性が高いとの最終診断。 術後7年目の診断です。私は転移性肺がんではなかったのだと思い、心から泣きました。よかった!生き延びることができた。神様ありがとう。 生きている間に、やりたかったことを今から思う存分やりたい。後悔がないようにという思いで、 次から次にやりたかったことを始めるようになりました。尺八、ギター、中国語など、思いつくままにお金を費やし、 気が狂ったように、趣味に走りました。
うつ病を体験した精神科医が感じたこと
毎日のようにうつ病で苦しんでいる患者さんを診察していた自分が、うつ病にかかってみて、 最も辛かったことは、周囲の理解が得られなかったことでした。周囲の人々の行動がどのように変化するか、 自分には普段よりも、より敏感に感じられるようになり、迷惑をかけてはならないという意識がとりわけ強くなったように思います。 職場の同僚は、むしろ仕事を切っていくという合理的な判断で、ますます自責感が増し、 今のうつ病に陥った自分が何らかの仕事で組織の中に貢献できないか、悩む日の連続だったような気がします。
 うつ病の最大の症状は、朝方の気分不良。朝、シャワーを浴び、全身に刺激を与えて、 どうにか、職場にたどり着くことで精いっぱいだった。ただ、周囲の同僚の目をみると、自尊心が傷つけられる連続だった。 そこで、ひとこと「調子があまりよくないようですね。何か困ったことでもあったのですか」と声をかけて欲しかった。
排他的に扱われるのではなくて、同僚としての心配が伝わるようなごく自然な会話。 その日常的な会話が、病者にとってどれだけ大切なのか、事務的な挨拶ではなく、感情のこもった心配、それを心底から待っていた自分ですが、 残念ながら、そういう語り掛けというのがなかったように思いました。
 周囲の方々は皆さん、自分の仕事で精いっぱいなのでしょう。しかし、日常的なコミュニケーションが途絶え、 触れないで、避けられることは、病者にとって、これほど辛いことはありません。仕事を切られることは、 ある意味で差別を受けているという意識に変化します。壊れた部品は、新しい部品に交換されることは、世の常ですが、 人間はそうではない。必ず回復する病という視点にたてば、安心して回復を待つという姿勢が同僚の方々の最も大切な理解だと思います。

 時間が最大の薬だと思いつつも、不安と焦燥から、辞めさせられるのではないかという考えに発展し、 一部の人は命を失う方もこれまで精神科医として体験してきました。私に課せられた運命は、 うつ病の本当の辛い気持ちが理解できていないために、神様がその体験を自分に与えたと思える余裕がみられるようになったので、 順調に回復していたのでしょう。診療の場面で、回復の兆しがなかなか見えてこない人もみられます。 「時間がかかっても大丈夫ですよ」といった、ちょっとした一言、コミュニケーションが、大きな意味をもつことを実感しました。
印象に残っている文献及び講演
N Engl J Med の編集長が主張した Ingelfinger rule は端的に言うと、「医療はプラスマイナスゼロ」という考え方。80%の病気は、現代医療で治せないか、自然治癒。11%の病気は、現代医療の貢献によって劇的に改善する例(救急医療、脳血管・心血管の障害に対する外科的内科的治療など)。残りの9%は医療を受けたために、薬の副作用などから生じる新たな病気(医原性疾患など)。この結論を巻頭言に書いたことに、多くの医師は納得するか、猛反対するか、議論の的になったらしい。私は、自分が治療を行った精神疾患の患者さんの経験から、彼の主張に同感しています。
February 24, 1977, N Engl J Med 1977; 296:448-449

寿命を左右させるのは医者なのか?(Forbes)

おわりに
 さまざまな困難に遭遇し、どうにか無事に乗り越えてきた65年間の自分を振り返ると、感慨深い思いがします。 なぜ、私がこんなに辛い思いをして、過ごさなければならなかったか、しかし、私が担当している患者さんのヒストリーには到底及びません。 もっともっと辛い物語を生き抜いてきた方がたくさんいます。人の不幸を比較してはいけないと思いますが、私は序の口レベルですね。
 ところで、私は音楽が好きです。今は、クラシックギターに嵌まっていますが、私が癒されるのは、 患者さんとの面談とクラシックギターを聴いているときです。なぜ?患者さんが話されている言葉は、 音楽に似ているからです。聴いているうちに、自分が楽になり、時間を忘れています。患者さんのストーリーの中に吸い込まれている感じがします。
また、私が語学にこだわるのは、そのストーリーをしっかり、聴き、理解することが、私たちの仕事の最も大切な作業となります。音(声)をつかむ力が 必要とされるからです。そうでないと、楽しくないでしょう。その音を正しく聞き、理解すれば、患者さんは再び、私の前に現れてくれる。
職場の人間関係が利害関係で ごちゃごちゃ混乱していても、受付から患者さんが来られましたという連絡を受けると、気持ちがスーと楽になり、診察室に向かっていました。 どんなストーリーなのかなあとワクワクする気持ちで一杯でした。患者さんのストーリーを聞くと、自分が癒されるのですね。
自分の存在感、自分が誰かに必要とされているという気持ちというのは、最高ですよ。そして、定期的に面談していき、 患者さんは自然に寛解されていきます。私はその自然寛解を見守るだけの存在です。
 これまで、皆様方に助けられて、ここまで無事に生きてこれたことに深く感謝いたします。

令和5年3月 

おるの人生、新しか章のはじまりばい、
スタート!
あいた、しもうた、時間のなかばい
なごうなんなっせ
たいぎゃ~がまだしたばってん、...
どっちゃん連れてくね?
そろそろいぬろっか